生まれたばかりのPARADA、記念すべき初のアートイベントです。
すばらしい感性を持ち、しかも尊敬でき、何かを学びとることができるアーティストたちとともに仕事をすることを、ずっと私たちは夢見てきました。今、ようやくそれが実現します。ここで目にするもの、耳にするものを心から楽しんでください。
"café" は ":(コロン)" の穏やかな休符に肖て・・・ その窓辺のテーブルに座る老紳士の遠い記憶と、カウンターに肘をつく青年のまだ始ってもいない旅の行方とを参照・引用しつゝ休息させ、また、他の客たちやカフェの店主の<記憶・経験・夢>という、それらそれぞれの内に包まれた他性と他性のあいだに「距離も同一化もない一種の横断(トランジット)、空間移動のない通行(パッサッジョ)」を介在させながら、"café" が内包する「非関係性から派生した関係」 ─ あるいは、穏やかな孤独の心地よさ ─ を":"のように自身を開いて運動させる。それが"café" にある、二つの雰囲気 <休息:運動>の組立(アジャンスマン)、カフェの心地よさなのだ。
"café" というアジャンスマンが、昔から芸術作品が生れる諸過程に関わってきた理由が、カフェのそうした機能に見付けられるだろう。アーチストの職能のひとつも、"café" や ":" に肖て、その表現なかの他性を感覚可能なものにすることである。寧ろ、そうした近代以降の芸術作品が内包している他性という資質は、アーチストがカフェで修得したセンシビリアであるかも知れない。
カフェの機能の特徴は、自己同一性・全体性・目的性・主題・対象を回避乃至避難させるファンクションを内蔵していることである。カフェにやって来る客は、お馴染さんも、一見さんも、会社や学校に所属するように、カフェに属しているわけではない。
"芸術にある<altérité : sensibilia>のアジャンスマン。それは意外にも、芸術のためにソフィスティケートされた場所では、見分け難いかもしれない。そこで作品は、常に自己同一性・全体性・目的性・主題・対象として労働し、その他性を開く前に、作品に憑き纏う、地図上の地点、カタログのノンブルが、作品の他性を覆い隠してしまっている。 カフェでは、誰であろうと、他人あるいは異邦人であることの他性を訪われることなく一時的に停留できる。ここで人は、他性を隠すのではなく、開くことによって自己を休息させ、他と他のまゝ接続し合う。アーチストはそこに、未だ覚知されないセンシビリアが無限に存在しうること、その可能な潜在性をカフェの微睡みに見付け出すだろう。 ここに紹介するアーチストたちとその作品も、それぞれ、地図上の地点、カタログのノンブルを持って作品を発表している。別々の地点に位置し、別々のノンブルを振られた、これらの作品を、カフェというひとつの停留所に集める意味があるのかと、それぞれの作品のスタイルを一瞥でもしたことがある人は想うかも知れない。
作品に課せられた属性は、作品が獲得したひとつの価値でもある。ただ、それは作品の即自性とは別に付加された、事によっては「余計」な価値として、作品を寡黙なものにしてしまう。
ここに集ったアーチストたちは、互いの作品に興味を持って地図上の点と点のあいだを移動し挨拶を交し対話を愉しんでいる。それと同じようにカフェという場所が、作品と作品とのあいだに、そのような挨拶、対話を許す。アーチスト同士が、カフェで話込むように。休息する作品と作品とが、カフェを通して、穏やかな心地よい孤独を味わいつゝ「手のなかの他處」を予断なく開くのである。
渡邊ゆりひと